イエローページジャパンハワイ 2015-2016
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802016キング・カメハメハの誕生とハワイ王朝の幕開け1750年代の後半、ほぼ1世紀に渡りハワイの島々を完璧に統治することとなるカメハメハ1世が誕生、パワフルなハワイ王朝時代の幕開けとなる。1782年、ハワイ島を制圧し勢力を充実させたカメハメハは他の島々の制覇を計る。カメハメハの成功は、貿易や捕獲で取得したイギリスの武器や帆船、またヨーロッパの戦術の巧みな利用に帰するところが大きかった。1796年までに、カウアイを除くすべての島はこの鉄の拳をもつ“太平洋のアレキサンダー”のもとに下った。その後彼の努力は揺るぎない政治構造を確立するために向けられた。この賢く、エネルギッシュな君主カメハメハ大王は1819年にこの世を去るまで、彼の民に永きに渡る平和と繁栄の時代をもたらせた。ハワイに来島するアメリカ人、イギリス人などの白人 (Haoleh) —ほとんどが宣教師や貿易商、捕鯨者— たちはハワイの文化を大きく変えた。キリスト教の布教に加え、新しい来航者たちは農業、商業、立憲政体を紹介した。19世紀の後半には砂糖キビとパイナップルの栽培がはじまった。しかし、この来航者たちが持ってきたのは益になるものばかりではなかった。西洋の疫病に対してまったく免疫がなかったため、クック来島以来100年が過ぎたいま、天然痘にかかった大多数の原住民が命を失いハワイ人の人口は激減してしまったのである。キリスト教伝来と新時代の到来1819年、カメハメハ1世が没し長男のリホリホが即位しカメハメハ2世の世となるが、このころからハワイ島は勢力争いの激しい戦キャプテン・クックの来島千年以上もの間これらの島々は、外の世界からの影響や妨害を受けることはなかった。この間、ごくたまに遭難者が島に漂着するぐらいで、これらの漂流者が自国に帰りハワイの島々の存在を報告したという記録は残されていない。イギリスの海軍卿サンドイッチ伯爵の後援のもとに、2隻の帆船を率いて第3次太平洋探検航海に出帆していたキャプテン・ジェームス・クックがハワイ諸島を発見、カウアイのワイメアに上陸したのは1778年1月20日のことだった。島民に友好的に迎えられたクック船長たちはその後2週間カウアイとニイハウを探検した。褐色の肌の島民たちにとってかくも蒼白い人間が生きていること自体不思議だったのか、島民たちは彼らのことを「ハオレ Haole“息をせざる者たち”」と呼んだ。クック船長はこの島々をパトロンのサンドイッチ卿にちなみ「サンドイッチ諸島」と名付けさらに北へ向けて出帆して行った。約1年後の1779年1月17日、再びハワイを訪れたクック船長はハワイ島のケアラケクア湾に上陸、同島の探索を集中的に行なった。おりしも収穫の祭りの最中に現れたクックら一同は、島民にとっては珍しくまた不思議な献上物の数々も手伝って、収穫と平和の神「ロノ」の化身であると信じられ手厚いもてなしを受けた。ヨーロッパ人が持ち込んできたあらゆる不可思議な品物の中で一番島民の目を引いたのは何と一本の鉄の釘だった。島民たちはこの頑丈な一片の金属は釣針として使えると考えたのである。たった1本の鉄釘と有り余るほどの豚肉やヤムが頻繁に交換された。船員たちにとってこれはまさに神の恵みとも思えた。しかし、これらの友好関係も長続きはせず不幸な終焉を迎えることになる。2月初旬、クック一行は船の修理も済み充分な休息と食料、物資の補給も終えさらに北へ向け出港したが嵐に遭遇、一隻の船のマストが折れてしまうという事故に見舞われ一端帰港する羽目におちいった。船の修理を行なっている間に、島民が救命ボートといくつかの鉄製の道具を盗む事件が起こった。ボートに使用されている釘を得るためにボートは燃やされてしまった。クックと乗組員たちは岸へ行軍し位の高い首長とその家族を人質に捕り船から盗んだものとの交換を要請した。怒った島民たちは浜辺に大挙集結、一人の船員がその群衆めがけ銃を発砲した。それが引き金となり乱戦が始まりクック船長は負傷した。それを見た島民たちはクックが神の再来ではないことを悟り一挙に襲いかかりクックを惨殺した。一週間の激しい戦いの末、ついにクックの遺体を取り戻すことに成功した船員たちは遺体を浜辺に埋葬しハワイを離れた。国に帰ってきた船員たちはハワイ諸島の発見を報告した。しかしその後約7年の間イギリスの船がハワイを訪れることはなかった。カメハメハ王銅像。

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